8月1日(木)
今、
ランプの宿 青荷温泉でこの日記を書いている。ほの暗いランプだけが部屋をぼんやりと照らし、外を見れば満天の星。窓に寄りかかってせせらぎを聞きながらキーボードを叩いている。
思えば電気の通らないこの宿に、パソコンなどというものほど似つかわしくないものもないだろう。
朝、厚い雲に覆われた相馬村を出て、十和田湖方面へ向かった。
時折薄日が射すこともあったが、十和田湖に着く手前で大粒の雨に出逢った。湖畔の道を車を急がせると、休屋の中心地に着く頃は、いったん雨はあがった。
既に早めのお昼を取るにも良い時間で、食事どころを物色していると、突然横殴りの雨が降り始めた。
雨を避けて、土産屋の二階にある、ねぶたというレストランに入った。他に誰も先客はいない。時間がまだ早いからだろう。
十和田湖の名物料理と言えばヒメマスで、この店のリーフレットによるとここでもヒメマス料理が売りらしい。にもかかわらず、メニューを見るとニジマス料理しか書いていない。何故?
窓から見える十和田湖は大荒れ。波しぶきが上がっている。こんな日はとても船になんて乗れない。
十和田湖にも田沢湖と同様、龍神伝説がある。
こちらは男性で八郎という。そう、田沢湖の辰子姫のだんな様だ。八郎も元々人間で、イワナを食べて龍になったという。しかもその後十和田湖を追い出されて八郎潟に住み着いている。今は十和田湖には龍はいない。
十和田湖を早々に後にして、時折雨のぱらつく中車を走らせると、不意に左手に美しい渓流があらわれた。奥入瀬渓流だ。
有名な奥入瀬渓流というのは、それなりにどこか駐車場に車をおいて、遊歩道を歩かないとたどり着けないような場所だと思いこんでいたので、まさかこんな風に車道に平行して延々と流れているとは知らなかった。
道路とほとんど高さの違わないところを渓流が流れているため、車の中からでもその美しい流れがよく見える。
カナ、ちょっと車を降りてご覧よ。
えー、降りたくない。
凄く綺麗な水があるよ。触ってみない?
天気が悪い平日でも、遊歩道を沢山の人が歩いている。
人気があるんだなぁ。
水の美しい渓流というのはあちこちにあるが、ここが芸術的に美しいのは、渓流の浅さや広さが適当で、岩があちこちにあり、流れが所々で白い飛沫になるからだろう。背景の緑も良いが、岩によって作られる水の色と形がどこを取っても絵になる。紅葉の頃は色づいた紅葉が水面に映えて、それは綺麗なんだろう。
奥入瀬を離れると、やがて
蔦温泉が見えてくる。標識があったと思うと、左手に横道があらわれ、その奥に写真で見た通りの、風格のある建物がかいま見えた。
ああ…蔦温泉が通り過ぎてしまう…。
が、旅もまもなく終盤。体力的には今日の昼間は一湯でがまんしなければ。夜は青荷が待っているし。
さらに行くと、右手に
谷地温泉、左手に
猿倉温泉の十字路を過ぎる。
ああ~、谷地も猿倉も過ぎてしまう…。入りたかったよう。
またいつか、きっときっと来なければ…。
ここからまだ
酸ヶ湯まで10キロ近くある。
道はぐんぐん登り始め、回りの木々が低くなってくる。高度が上がったのだ。時折立ち枯れた木がむき出しの幹をのぞかせて荒涼とした景観を作っている。
傘松峠を越える。もう雨は降っていない。重苦しい空の色を背景に、のしかかるように八甲田山がそびえている。
酸ヶ湯というのは思ったよりずっと高所にあるのだ。
まんじゅうふかしを過ぎて、右手に硫黄の色で染め上げられた岩肌が見える。
カーブを曲がると酸ヶ湯の看板が見えてくる。ここから200メートルほど下ると、
酸ヶ湯温泉だ。
建物は古めかしくしかも堂々と威圧的だ。山の中だが、かなり規模の大きい宿だ。蕎麦屋なども併設されている。
駐車場は車でいっぱい。有名だしとても人気があるから混んでいるのは仕方ないだろう。
ここがあの有名な混浴の千人風呂入り口。
この他に、男女別の玉ノ湯という浴室もあるが、ここはやはり、千人風呂にトライしてみるべきだろう。
いざ。
千人風呂は写真撮影禁止なので、画像はありません。念のため。
脱衣所は男女別。それほど広くなく、ベビーベッドのようなものはまったく無い。まあ、千人風呂にお座りもできない赤ちゃんを連れて入ろうという猛者はあまりおるまい。
流石に完全混浴にレナの面倒を見ながら入る余裕は無いので、レナはパパにあずけ、私はカナだけを連れて行く。
浴室より脱衣所の方が高い場所にあるので、風呂に入るときは、階段を下りることになる。階段はちゃんと目隠しされていて、しかも女湯はのぞき窓付き。浴室内を確認できるのだ。でも確認したって、女性専用タイム以外は、男性がうじゃうじゃいるに決まっているのだが。
階段を下りたところにあるのは熱の湯。目隠しに沿って真っ直ぐ進むと、奥の四分六分の湯へ移動できるようになっている。とはいえ、どちらに入るにも、浴槽の回りは目隠しがないから、完全にフリーになってしまう。目隠しの中は安全地帯だが、出たら巧く手ぬぐいで隠して、さっと入ってしまうしかない。入ってしまえばお湯は緑がかった白濁色なので安心だ。
熱の湯と四分六分の湯と言うが、ほとんど同じ様な温度でかなり熱めだった。とても長くは入っていられない。どちらの浴槽も、一つの大きな浴槽内で、片側が男性用、反対側が女性用となっている。
強い硫黄臭。パパが「レモンのような味」だと言って飲専用のおちょこを持ってきてくれた。酸っぱいのが苦手な私はなめるだけ。本当に味はレモンそっくりだ。
のぼせたので目隠しの衝立の後ろに回り、休む。衝立の後ろには、冷の湯と言って、のぼせたときに頭からかぶるための湯と、水飲み場のように水道の蛇口が並んでいる。冷の湯と言っても、冷たくはない。まあ、ぬるいかなというくらい。しかし私は最初いきなり熱の湯に行ってしまい、掛け湯に苦労したので、最初に衝立の後ろで冷の湯で掛け湯をして入るのが安心かな。
蛇口をひねると冷水が出てきた。こっちは本当に冷たくていい気持ち。桶に冷水を入れて、子供達と頬や肩にパタパタとパッティングしてみた。酸ヶ湯の熱い湯でほてった顔に、これが滅茶苦茶気持ちいい。
余裕が出来ると、千人風呂の建物自体が凄く印象的であることに気がつく。
混浴でなかなか辛いが、やっぱり一生に一度は入りたいお風呂の一つだった。
東北に入りたい湯はいくつもいつくもあるが、本当にいい湯に入ると、はしごする気も失せてしまう。あまりにいい気持ちで、もうこれでいいやと言う気になる。
蔦も谷地も
猿倉も、本当に本当に入りたい湯だったが、
酸ヶ湯にのんびり入ってみると、今回はこれで良かったんだと思えてくる。
酸ヶ湯から青荷は案外近かった。
30分ほど走ると、青荷へ至る細道へ入る。
カーブというカーブ、道という道に、全てこうした津軽弁の青荷の看板がかかっている。「あと5キロ」という表示も、青荷にかかると「アド5km」となってしまう。これらの看板は、楽しくて仕方ないという雰囲気を巧くあらわしていて、近づくごとにわくわくしてくる。
駐車場に車をおいて、最後は急坂を歩いて下る。
カナは、電気のないところに泊まる、夜はランプというシチュエーションに嬉しさと好奇心を隠しきれず、一人走って降りていってしまう。
早く早く。
紫陽花の向こうに
青荷温泉が見える。
坂を下りきると、最初に目に付くのは去年の正月に出来たばかりという健六の湯という総ヒバの湯小屋だ。まだ木の色が真新しくて、他の建物から少々浮いている。帳場のある棟は、いかにも雰囲気がある。のぞくと暗い廊下。ちょっとドキドキする。
座敷わらしのように顔だけ出しているのはカナ。
3時30分。まだ日は十分高いはずなのに、谷あいだからか、ずいぶん暗く感じる。部屋に入って荷物を下ろすと、すぐランプを配り始めた。一人で配っているため、全ての部屋に行き渡るまではずいぶん時間がかかる。
その間にお風呂へ行ってみよう。
廊下に並べられたランプ。これから各部屋に配られる。
橋を渡っていくというだけで、お風呂に入る気分が高まる。
青荷と言えば一番有名なのは龍神の湯である。
露天風呂ではなく、混浴の湯小屋なのだが、三面が開閉できる窓になっていて、いい感じの巨石が横たわっている。
脱衣所は男女別。これだけでもとてもありがたい。
さらに入るとすぐ浴槽があるが、入り口のところが衝立で仕切られている。
だから、見られずに湯に入ることが出来る。これで白濁の湯なら楽勝だが、あいにく青荷は透明。気の利かない男性が、女性の脱衣所出口が見えるような、巨石の方に陣取っていたりすると、ちょっと入浴には勇気がいる。
龍神の湯はかなり熱い湯で、カナは入れたが、レナは最初、躊躇して入りたがらなかった。脱衣所で会った方にも、子供は無理じゃない?と言われたぐらい。
けれど一度、入れてしまうと気に入ったらしく、今度は出ないと言いだした。ホントにお風呂好きだね、キミは。
ごく淡い灯油臭。味は癖のないミネラルウォーター系。ほぼ無色透明で、時折白っぽい細かな湯の花が舞う。入るとわずかにきしきしする感じ。非常にさっぱりとした湯だ。でも出た後はかなりすべすべになる。良いお風呂だ。
龍神の湯の側に半露天風呂もある。三方を仕切られているし、屋根もついているので、これは完全な露天風呂ではない。この風呂のすぐ前に一人用の樽桶の風呂があって、正確にはこれだけが露天風呂なのだと思う。これは子宝の湯という名前で、何でだろうと思ったら、湯口がそれらしい形なのだった。
龍神の湯の後、半露天風呂にも入っていこうと思ったが、アブがいると、既に三カ所も刺された男性がパパに言っているのが聞こえたので断念した。
部屋で窓を背に涼むパパとレナ。
夕食後、カナが蛍を見たいというので、滝の辺りをそぞろ歩いてみた。季節外れだからか、しばらく待ってみたが、蛍はいない。カナはがっかり。ランプに照らされたほの暗い橋や小径を、結構多くの人が散策している。
子供達を寝かしつけると、疲れたドライバー・パパも寝入ってしまったので、一人で風呂へ行くことにした。
とりあえず、夕方入り損ねた半露天風呂へ行ってみる。
もしかしたら女性専用タイムだったのだろうか、女性三人の先客がいた。男性は誰もいないので、のびのびと手足を伸ばす。いいなぁ、極楽極楽。
ここは湯は、音を立てて高いところから出ているのと、入り口近くから出ているのと二つ湯口があるらしい。高い方は熱めで、低い方はそれほど熱くない。それでちょうど良い湯加減なのだろうか。龍神の湯より適温だ。
そうしているうち、先客は出てしまった。
あとはランプに照らされて、一人っきりだ。
素焼きのブタの蚊取り線香が隅に置いてある。
いい湯だなぁ。遠くまで来たなぁ。
青荷の青荷たるところは、やはり岩なのだと思う。
龍神の湯の岩が象徴的だが、風呂の岩の選び方が良い。形、大きさ、すべらかなところも、角張ったところも、全て己を主張していい味を出している。古びた湯小屋や、鄙びた建物ならば、他にもあるのだ。あの岩だけはどこも真似できない。それが青荷だ。
龍神の湯だけでなく、この半露天風呂も、内湯も、いい岩が鎮座している。健六の湯の残念なところは、岩を置かなかったことだ。
そして単純泉の湯も良い。
硫黄泉や塩泉に入り疲れた後、こんなにいい湯があったのだと、改めて気づく。
何があるわけでもないのにさっぱりとして、体の芯まで温まる。
脱衣所を出ると、空にはいつしかきらきらと星が瞬いている。
今日一日天空を覆い尽くしていた雲は何処かへ去ってしまい、今は透明な大気だけが横たわっている。
せっかくだから、もう一度龍神の湯に入っていこう。
おや、静かだ。遅い時間でもないのに誰もいないらしい。
ランプだけに照らされたほの暗い空間は、昼間とはまた違った幻想的な雰囲気。
暗い天井を見上げる。こんなに良い湯を独占して良いものだろうか。
開け放たれた窓の外、暗闇の中で小さな黄色い光がふわりと浮いた。ゆっくりと点滅しながらそれは、窓を横切り彼方へ消えていった。
それは、ランプの灯りよりまだ儚い、季節外れの蛍だった。
つづく