10.再び千代の湯
部屋に戻るとまだ地蔵組は戻っていなかった。
このまま夜までずっと地蔵にいるらしい。
私たち夫婦も、やっぱり時間湯は効くと思いせっかくだから夕方の部も行くことにした。
部屋で何となくおしゃべりしたり摘んだりしているだけで、すぐに5時の回は来てしまった。
5時の回の時間湯は賑やかだった。
千代の湯の入り口に行くと、ちょうど時間湯のドアの前で迷っている若い女の子が二人いた。
私たちと一緒に来た紺碧七さんが、ドアを開けて男性は左の部屋、女性は右ですよと教えて上げると、女の子たちは「ねえねえもしかして今のが湯長さんかしら」とひそひそ話をした。
残念。
紺碧七さん、あの井田湯長と間違われたみたい。
「こっちの副湯長さんは女性なんですよ」
「えーっ、知らなかった」
「そうなんだー」
浴衣姿の女の子たちは高砂館に泊まっている観光客のようで、湯治ではなく純粋に体験目的で時間湯に来たようだ。
さらにもう一人、色白美人の奥さんが来た。
こちらは旦那様の短期湯治に付き添って、一週間ほど草津に泊まり込んで毎日夫婦で千代の湯に通っているという。
男性側も、和気藹々とカーテン越しにおしゃべりしているのが聞こえてくる。
やっぱりさっきみたいに一人でやるより、仲間がいた方が楽しくていい。
最初のお祈りは、服を着たまま入った。
副湯長さんが上から垂れてくる雫に注意して下さいねと声を掛けてくれた。そのときは特に気にしていなかったが、後で消しゴムさんに千代の湯はダメトレ(ダメージトレーナー)を作るのに最適と笑える話を教えてもらった。
確かにあの雫一滴で、綿の服なんてあっと言う間に変色、数滴で洗濯を繰り返した後に立派な穴でも開きそうだ。
硫黄泉は銀製品を真っ黒にするので知られているが、酸性泉はダメトレ制作に最高。ちなみに昔、北海道の有名な野湯カムイワッカの滝(今はもう入れない)を上ったとき、着ていた水着の箔押しは溶けて、その上にかぶっていたTシャツは見事にダメTと化していた。
今回は人数が多いので、四回に分けて入湯してもらいますと副湯長が告げた。
千代の湯では体験をメインに行っているため、男女は夫婦をのぞいて基本的に別々、更に湯治の人や初心者にあわせて微妙に温度調節など行うので、そのときになってみないと何回目に入湯できるかは判らない。
女性陣は四人全員で最後の回に入湯することになった。
個人的には、このメンバーだとちょっとまたぬるめになっちゃうかなという気がした。
「湯もみとかはやらないんですかね」と、観光客の女の子が聞いた。
既に今週一週間この千代の湯の時間湯に通い詰めているという美人の奥さんが、「ここではいつも副湯長さんがお湯の準備をしてくれるから湯もみはやらないみたい」と言ったが、さっき紺碧七さんが「さあー湯もみやるぞ」と息巻いていたから、今回はやることになるんじゃなかろうか。
そしてその通り、気がつくと脱衣所から見て奥に男性陣、手前に女性陣が並ばされ、板が配られていた。
えっ、あれ? 紺碧七さんたちだけが湯もみするんじゃないの?
湯気で薄暗い千代の湯の時間湯浴室に湯もみ唄が響き、そのリズムに合わせて重い木の板が沈みひねられ、持ち上げられる。
前回、下手に湯を攪拌しようと板に湯を乗せてひっくり返すことにばかり専念していたら、重い板に振り回されてすっかり板が好き勝手な方向に泳いでばかりいた。
今回は前の失敗を繰り返さないようにと思って、板でお湯を動かそうとせずにただリズムに乗せて縦に斜めに揺らしていた。
これはこれでちゃんと湯もみできていないような気がするが、付け焼き刃なんだから仕方ない。
上手な人だときちんと渦を作ることができると言うけれど、それにはちゃんと練習が必要。
見よう見まねではこれが精一杯。許して。
一所懸命湯もみを終えた後、女性陣はいったん脱衣所へと引っ込んだ。
四番目となると、入湯するまでずいぶんかかる。
観光客の女の子たちは壁に貼られた説明文を読んで、「えっ、どうしよう、バスタオル持ってこなかった」と騒ぎ出した。
「バスタオルがいるなんて知らなかったんですよ。どうしよう・・・」
湯もみは浴衣姿で既に終えているから、残りのバスタオルの役目は湯上がりに体を拭かず、かつ湯冷めしないようにかぶったり巻いたりすることだ。
「一応、この時間湯でもバスタオル売っているけどねぇ」
美人の奥さんは「私も知らなくて、最初に来たときは買いましたよ」と言った。
四色、色違いの
大滝乃湯ロゴ入り、1,280円。
記念にはなるけどちょっと高いかな。
あんまり困っているようだったので、ちょっと副湯長さんを呼んでみた。
「バスタオル無いんですか・・・本当は拭いたりすると効果が薄くなっちゃうんですけど、まあ体験と言うことで仕方ないでしょう。湯上がりはできるだけ体を冷やさないようにして下さいね」
「はーい」
そしてようやく支度をしようと腰を上げたとき、何やら入り口の方が騒がしくなり、いきなり脱衣所のドアががらっと開けられた。
「あれ?」
男性の声がして、それから慌てて出て行く音。
「び、吃驚した~」と女性陣全員。
後で判ったが、どうやら共同浴場と間違えて入ってきた男性がいた様子。
それにしてもわざわざ女性用脱衣所を開けなくても・・・。
地蔵の湯でもときおりこんなことがあると言うけれど、ドアノブのすぐ上に関係者以外立入禁止と明記してあるのだから、もう少し慌て者が減ると良いのだけど。
みんな支度を始める前で助かった。
時間湯の位置は前回同様、私は一番熱そうな場所に案内された。
正面に美人の奥さん。
湯口から遠い方に観光客の女の子二人。
女の子たちも熱いとかきゃあきゃあ言わず、教えられたとおりてきぱきと頭から湯をかぶっている。
お湯の熱さも2時の回より気持ちぬるいくらい。
ぬるすぎはしないけど、本当に良い湯加減というか、熱くて困るようなことは無い。
思わず上がったときに「気持ちよかったー」と口に出してしまうくらいだった。
女の子たちは「すごーく熱かったらどうしようかと思ったけど、大丈夫だった」と楽しそうに感想を述べていた。
外に出るともう暗くなっていた。
既に時間は夕方6時。
男性陣はとっくに帰ってしまい、一人で湯畑の周りを歩いてみた。
土曜日の夜だからまだまだ大勢の観光客が散策している。
もうもうと上がる湯畑の白い湯気の先に、くっきりと綺麗な三日月が浮かんでいた。