みなさん、こんにちは。ようやく第1部の最終回までたどり着きました。長々とおつきあい下さいましてありがとうございます。
さて、私たち3人はお天気の悪い東京を脱出して、青空をバックにした山々を期待しながらスイスに来たわけですが、着いた初日のチューリヒ、翌日のベルン経由のラウターブルンネンとさんざんで、その日は終いには雨まで降り始めました。翌日も曇りでしたが、クライネシャイデックで雲の波を突き抜けついに青空を拝め、ありがたいことにその次の日にはシルトホルンは快晴でした。
とはいえ、再び山を下り、谷間のホテルに戻ればじめじめと陰気な湿気が部屋を取り囲み、谷の上部は厚い雲に覆われ、そそりたつ崖の迫力と飛沫をあげる滝の様は目に厭きないものではありましたが、閉塞感と鬱屈とした気配はもはや耐え難いほどでもありました。
そうした中、ホテル・シルバーホーンの暖かなホスピタリティにはとても慰められました。
そして、いよいよ最後の夜が明けます。
「おい、晴れてるぞ」という声で起こされた。
何言ってんだ。昨日だって一昨日だって山の上は晴れてたじゃないか。
「凄いよ、早く見においで」
ダンナの声に眠い目をこすりながら窓に向かう。テーブルとイスの付いたバルコニーは、谷の背に面していて、右手にはミューレンに至るケーブルカーが、左手にはシュタウプバッハの滝が見える。左手の奥に首を伸ばせば昨日まではウェンゲンに至るそそり立つ反対側の壁しか見えなかった。今朝は?
???コンタクトレンズが入っていないから、何が見えるのかよく分からない。なんか青い中に数条の白いものがたなびいているようだ。青?白いもの?、青空に雲か?、昨日までは雲しか無かったぞ。たなびいているってことは雲はほとんどないってこと?
洗面所に取って返し、レンズをはめて窓に駆け寄る。
そこに見えたものは、またもや想像を絶する景色だった。
白くたなびいているように見えたものは、雲などではまるでなかった。それは、とんでもない高さにそびえる、白い峰々だった。今まで灰色の雲でぴっちりと蓋をされていた谷の上部が、今朝初めて姿を現した。そして、そのさらに奥に遥かな山々が連なっていたのだ。
あぁんなところに、山があったんだぁ。
そのときは、これらの山のどれかがユングフラウかと思った。しかし、実はこれは谷のもっと奥の方にそびえる山々だった。
ふとバルコニーから下を見ると、同じホテルの客だろう、朝の逍遥と洒落込んでいた独り旅らしい男性が、カメラを下げて景色に見惚れている。
カメラ!
「私たちも、行こう!」
二人で階段を駆け下りる。玄関を飛び出すと、そこにまたすばらしい景色が待っていた。真っ正面の崖の上に、はるかに高く、優雅なユングフラウの上部がたたずんでいたのだ。
言葉もなく立ちつくすしかない。
寝ている間に長く谷間にたゆたっていた鬱陶しい雲は全て払われ、黒々としたU字谷の崖の上から、白く神々しい女神は地上を見下ろしていた。
そして、見上げているうちに最初の陽の光がユングフラウを照らした。きらきらと輝いているのは雪の三角錐のようなシルバーホーンの峰だ。
ああそれで、このホテルの名を、シルバーホーンというのだ。
散歩から戻ってきた品の良い老婦人が挨拶をしてくれる。英語でようやく晴れましたねぇと言っている。今朝は早起きが多いようだ。誰もが心待ちにしていた朝だからだ。
このホテルはラウターブルンネン駅からミューレン側の急斜面を少し登ったところにある。ホテルの入り口から谷を臨めば、まさに正面にちょうどせり上がったユングフラウが見えるのだ。その姿は、クライネシャイデックやシルトホルンから見たものとは異なり、本当に頭の部分をそれも遥か下から見上げた形だから手前しか見えないのだが、すぐ前に氷河に削られた谷の壁がそそり立っていることで、不思議な非現実感を醸し出している。
そしてシルバーホーンがその名の通り銀に輝き、そびえ立っている。ああ、あの綺麗に滑らかなてっぺんから、滑り降りられたなら気持ちいいだろうなぁ。
だけどゆっくりはしていられない。出立の朝に限って朝食が出てくるのが遅かったりするのだ。いつもならとっくにダイニングにはパンやチーズが並んでいる時間なのに、今日は電気もついていない。駅からの急坂をのぞいてみると、初日に夕食をサーブしてくれた黒ぶち眼鏡のちょっと恰幅の良いお姉さんがゆっくりと登ってくる。遅いよ。寝坊したの?早く早く。
ユングフラウ地区で過ごした3日間を振り返ってみると、毎日驚きの連続だったように思う。思えばこれから先の旅で出会った景色の方が遥かに天候には恵まれていた。でも、この地域が私たちにとても強い印象を残したのは、一度で全てを見せたりず、昨日はこっそり隠していた宝物を、毎日、毎日、一つずつ大事に開けて見せてくれたからだろう。
毎日、毎日、私たちはすごい感動を味わって、もうこれ以上凄いものはないだろうと思っては、また翌日裏切られるのだ。そして、最後の最後に内気な乙女は「もうこれでおしまいよ」と纏っていた雲を全て脱ぎ捨ててその素顔を現した。これがこの谷の真実の姿だったのだ。
大きな荷物は昨日出してしまった。手荷物だけを持ってホテルを後にする。
急坂を下りおりて駅で振り返ると、来たときと同じようにシュタウプバッハが白く飛沫をあげながら流れ落ちているのが見えた。雲に閉ざされたあのときと、周りの様子はなんと違って見えるのだろう。モノトーンの谷間に、今は空や花や緑や、スイス国旗の色があふれている。
そうして、私たちはラウターブルンネンの谷を後にした。
長い長い峠越えの一日の始まりだ。
第1部 完
途中、切れたことも何度かありましたが、ようやく一区切りつけられるところまで来ました。お読みいただきまして本当に有り難うございました。ツェルマット編も、あまり時間をおかないで開始できればと思います。いろいろとコメントをつけて下さった方々にはとてもとても感謝しています。それではまた、第2部でお会いしましょう。