みなさんこんにちは。続けて28話へ行きます。
再び谷間のホテルである。
そろそろ夕闇が迫る時刻だ。昏くなる前に庭を散策することにした。
ホテルはせいいっぱい陽の光を浴びようと斜面に建てられている。サイドには同じく斜面を利用した、手入れの行き届いた可愛らしい庭がついている。庭には誘うように小道がついていて、黄色い花や青い花が競うように咲いている。
夏の終わりということもあり、野生のエンツィアンにはついぞお目にかからなかったが、この庭にはお行儀よく並んでいた。
庭の裏には一休みできる庵があり、その奥になにやらぶっそうなものが鎮座していた。大蛇のような竜のような奇怪な木乃伊である。取り付けられた柵になにやら説明文がついていたが、なんと書いてあったのか記憶にない。ただ、不思議なものがあるなとぼんやりと思った。
今日も長い一日だった。
でも、本日の仕事はこれで終わりではない。明日はいよいよユングフラウ地方を後にして、ツェルマットへ向かうのだ。予定では、ラウターブルンネンから鉄道でマイリンゲンに出て、黄色いポストバスでグリムゼル峠を越える。オーバーワルトからは氷河特急でツェルマットだ。更にその日のうちにゴルナーグラートに登って山頂のホテルに泊まるのだ。明日こそはとても長い一日になるだろう。とても荷物なんて持って歩くわけにはいかない。そのうえ、道程が長いので、荷物は早めに出しておく必要がある。そんなわけで出発前夜の今日、ライゼゲペックに初挑戦だ。
手荷物を残して3人分の荷物を詰めた特大のスーツケースをひきずって、とっぷりと暮れた宵闇の中を、ラウターブルンネンの駅へ向かう。母はホテルでお留守番。私とダンナの二人で行く。
ウェンゲンに至る斜面を、闇の中、ウェンゲルンアルプ鉄道が一条の光の帯のように煌めきながら登っていく。
駅舎は暖かな光に包まれていた。切符を売る窓口で「ライゼゲペック プリーズ」と、何語だか分からないようなフレーズを言うと、駅員のお姉さんは左手を指した。私とダンナとで指された方を見ると、荷物用の扉がある。あそこにスーツケースを持って行けと言っているようだ。
ずるずると運んで扉の高さまで持ち上げると、お姉さんが内側から扉を開けた。
「どこまで送るの?」
「ゴルナーグラート」
それでお金を払うと終わりだった。スーツケースはタグをつけられ奥の荷物置き場に運ばれた。無事、山の上まで届くかな?
まだもう一つ仕事が残っていた。
駅の公衆電話から、電話をする。ダイヤルするのはツェルマットの日本語観光案内所だ。もちろんスイスで電話機を使うのは初めてでドキドキだ。
「もしもし」
「はいJTICです」
ほっ、日本語だぁ。
「所長さん、お願いします」
「所長は出張中ですが」
「明日はお戻りになりますか?」
「しばらくもどりませんが」
がが〜ん。
ショックで目の前が暗くなった。
出発前にニフティサーブ FEURO 旧アルプス小屋会議室でお世話になった所長さんに、是非是非ともお会いしたかったのに。とってもとっても残念無念。
気を取り直して、所長さんが氷河ハイキングをするなら事前に天候をJTICに問い合わせて下さいねと言っていたことを思い出した。
「あのー、氷河の上をハイキングしたいんですけど、ヘルンリ小屋まで行かれますか?」
「・・・こちらは初雪が降ったのでとても歩けないと思いますけど」
動揺していたのでモンテローザ小屋を誤ってヘルンリ小屋と言ってしまったことにも気がつかなかった。礼を言って受話器を置いた。9月になったばかりというのに雪。さすがはアルプスである。
夕食の後、階段下のリビングでくつろぐ。チェックインカウンターを挟んで食堂の隣にあるこのスペースには、レトロな感じの絵だか写真だかが一枚掛かっていた。品のよい紳士である。
ダンナとこれは誰だろうと話していたら、通りかかったホテルのマダムが、「マイ グランドファーザー」と教えてくれた。
相変わらず階段の脇には大きな犬がとろんとした顔で寝そべっている。
このホテルは本当に居心地がよい。でも、もう明日には出発しなくてはならない。
さあ、次回はいよいよ第1部最終回です。最後のクライマックスが待っています(な〜んてね)。お楽しみに