子連れ家族のための温泉ポイント
- 温度☆☆☆☆☆ 泉質★★★★★ 湯温はとても熱い、泉質は刺激なし
- 設備☆☆☆☆☆ 雰囲気★★☆☆☆ 観光客が子供を連れて来るにはあまり向いていないかもしれない
子連れ家族のための温泉ポイント
須川に伝わる伝説に因れば、文徳天皇の時世、岩穴に住む弘頂法師という僧がおり、大乗教典を唱えながらの17日に及ぶ断食の後、不思議な老僧のお告げを受けて湯が湧き出したとされている。
この温泉を湯宿温泉という。
場所は群馬から新潟へと抜ける三国街道沿い。
この湯宿温泉には数軒の旅館と、四軒の共同浴場がある。
共同浴場の名は、窪湯、小滝の湯、竹の湯、松の湯という。
湯宿温泉街は三国街道から斜めに入り街道と並行して石畳の道が続くこぢんまりとしたところだ。
この辺りは三国街道須川宿のあった場所とも近く、昔から旅人が立ち寄っていた温泉地だ。
鄙びた温泉としてつげ義春の作品の舞台となったこともある。
また平成11年には国民温泉保養地しても登録されている。
しかし今、湯宿温泉の影は薄い。
温泉そのものが無色透明だからか、規模も寂れ方も中途半端だというイメージがあるのか、もっと知名度が高くても良さそうなのにもうひとつ知られていない。
でもそれは逆に考えれば、首都圏からすぐの群馬県で、喧噪から離れてゆったり湯治ができるとも言える。
小さな温泉地にも関わらず共同浴場の数は多く、例えばリーズナブルなみやま荘などに泊まれば二食付きで5,550円と破格だ(当時)。
さて、前述の石畳の坂道を登っていくと、正面に湯本館という旅館が見える。
湯本館の前から直角に左に曲がれば再び国道に出るが、もう一本斜め左に伸びている細い道がある。
曲がって直ぐにお宮のような建物があり、湯宿温泉薬師瑠璃光如来が祀られていた。
薬師如来の先で道はカーブしていて、そこを曲がると直ぐに立派な作りの共同浴場が見えた。
ここが湯宿温泉共同浴場の中でも最も有名な「窪湯」だ。
女湯は鍵が掛かっている。
湯宿温泉の共同浴場は全て施錠されていて、地元の方か湯宿温泉街に宿泊した人しか鍵を手にすることはできない。
私は宿泊者だったので、鍵穴に、鍵を差し込みそっと窪湯のドアを開けてみた。
思った通り誰もいない
窪湯の印象は、その堂々とした湯小屋の造りといい、石造りの浴槽といい、昨日入った竹の湯とよく似ていた。
ただ浴槽の形は異なる。長方形の角をひとつ欠いた形になっていて、少し高いところから音を立てて湯が落ちていた。
お湯は猛烈に熱い。
昨日の松の湯はおろか、かなり熱めだった竹の湯とも比較にならないくらい。
イメージ的には草津の時間湯とか、早朝の飯坂温泉共同浴場とか、そのくらい。
これが本物の湯宿の温度かと思うほど、きりきりとたぎっていた。
何度も掛け湯をして、入っては直ぐに出てを繰り返した。
ふくらはぎが痛くてゆっくり入っていられない。
軽いきしつきと甘い石の臭い。
湯の花は見あたらず、どこまでも透明。
流石の私でも熱すぎて、ゆっくりと入る気持ちにはならなかった。
窪湯のあった通りをさらに先へ進むと、ほんの2、3軒先に小滝の湯と書かれた共同浴場が建っていた。
あまりにも近すぎる。
たぶん管理利用するグループが窪湯とは違うのだろうが、こんなに近いところに二つ作らなくてもと思うくらいに近かった。
小滝の湯の女湯も無人だった。
やはりここも鍵が無くては入れないところだった。
中の造りは松の湯と似ていて、ドアを開けるとそのまま脱衣所、浴室と全て繋がっている。
お風呂は長方形で、浴槽の底はタイル張りだ。
無色透明なお湯がなみなみと満たされている。
しかし小滝の湯のお湯は拍子抜けするほどぬるかった。
ゆっくり入るにはいいけれど。
あまりにぬるかったので、後で泊まっている宿に源泉が違うのか聞いてみたが、昨夜の松の湯での地元の方の話同様、湯宿温泉内の旅館も共同浴場も湯本館の源泉一本を共同で使用しているという話だった。
近くの誠法館は赤岩温泉で別源泉だが、他はみんな同じとのこと。たぶん朝一番で入った誰かが加水してぬるめたんだろうという結論になった。
そうそう、これら共同浴場のドアの内側には木の板が打ち付けてある。
これを回転させて挟めばドアが閉まりきらないようにできるのだ。
窪湯の男湯はこのとき板を挟んで開けっ放しにしてあったようだ。
湯宿温泉の共同浴場は基本的に鍵が無いと入れないが、地元の方や鍵を持っている人がこの板を挟んでくれた場合だけ、鍵のない外来者でも入ることができる。
ということは、とにかく湯宿宿泊者をのぞき、共同浴場に入りたい人は行ってみないと入れるかどうか判らないわけだ。夕方の入浴客の多い時間帯なら開いている確率は高いだろうが、今回の窪湯のように男湯だけ入れて女湯は鍵が無いと入れないということもあるし。
ドアの横に手書きの張り紙があった。
「ドアの止めてある木をいじらないで下さい 世話人」
これは木を挟むなという意味だろうか?
それとも挟んである木を外すなという意味だろうか?
どちらにせよ、地元の人でない私たちは触ってはいけないという意味だろう。
この木がドアの横から外されて、完全に鍵無しでは入れない日が来ないよう、私たちはもらい湯の精神を忘れてはいけない。