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最初の予定では、5月1日の真夜中に東京を出て、夜なか中走り早朝にでも奥飛騨に着く予定だった。
今年のゴールデンウィークは前半飛び石で、後半は5月2日から6日まで連続休暇。
パパの会社は真ん中の4月30日と5月1日も休みだったが、子供たちの小学校はカレンダー通り登校。
だから友人のyuko_nekoさんが誘ってくれたキャンプ旅行の日程は、5月2日から奥飛騨オートキャンプ場で二泊、その後氷見に移動して民宿で一泊、5月5日に帰宅・・・というものだった。
しかし、世間では土日を挟んで高速道路を使えばどれだけ走っても(都市部さえ通過しなけりゃ)千円になるという特別割引に沸いている。
ということは・・・5月1日(金)の深夜に出発して翌朝現地に着けば十分割引適用になるが、みんながみんな同じことを考えたら道路は大渋滞まっしぐら。
夜中に出るのはやめて夕方に出るか。
というのが次の選択肢だった。
だいたい夜中に出発するのは辛いし、寝ないで早朝から行くあてがないのも辛いし、睡眠不足だとその後のキャンプだって絶好調で楽しむというわけにはいかない。
パパはとにかく私は夜中とか朝には弱いのだ。
で、次に考えたのは夕方出発したとして、どこで夜を明かすかだった。
車中で寝泊まりするいわゆるP泊というのはほとんどやったことがない。
若かりし頃、一度、北海道旅行をしたときにちょっとやっただけだ。あの時は結局よく眠れなくて旅の終盤、熱を出した。
もちろん子連れでP泊を経験したことは無い。
ミニテントを出して、そのテントと車の中で分担して寝れば何とかなるかなぁと思っていたところ、パパがノートパソコンを持ってきた。
「ここなら泊まれるぞ」
見るといつもお世話になっている格安宿泊予約サイト トクートラベルのサイトが表示されている。
なになに?
安曇野山荘旅館せきえい?
大人二千円ちょっと? 安いじゃん。
一室だけ空きがある。
よし取っちゃえ。
しかーし。
時は既に4月30日の深夜。
つまり今から取ろうと画策しているのは翌日の分なのだ。
GWに半分突っ込んでいるし、今から宿を取ろうと思う人も少なくないようで、いつになくトクーのプログラムは重い。いや、重すぎる。最後のクリックを押して何回はじかれたことか。そのたびに表示されるのは黄色いウサギがお辞儀しているエラー画面か、わけのわからない文字化け画面ばかり。
こうしている間に残る一室が埋まっちゃったらどうしようー。
ようやくまともに画面が進んで、宿泊をお受けしましたという文章が表示されたのは翌日の0時15分ごろだった。
ええーい、もう出発当日になってるじゃんかーっ
こんな日に限って・・・というのはあるものだ。
こんな日に限って・・・カナの学年は校外学習だった。
何もGWでバス代は高いし道路は混むし・・・なんていうときにこんな企画を入れなくても・・・と多くの保護者は思ったに違いない。
しかし学校の決めたことには逆らえない。
カナが予定通りの時刻に帰ってくることを祈りながら私たちは待った。
「ただいまー」
彼女が帰って来たのは4時15分。
5分後にはもう出発していた私たち。
既に旅行準備は万端。
妹のレナも4時前には帰宅していて、姉の帰りを今か今かと待っていたところだ。
5時過ぎには高速に乗っていた。
しめしめ。
作戦は功をなして、行きかう車の数は多くはない。
明日になったら混むだろうなー。
でもその頃私たちはもう安曇野の空の下さ。
5時半ごろ、中央道を走っているはずのyuko_nekoさんから携帯にメールが入った。
「勝沼前14キロ付近で事故渋滞中」
どうも後から聞いた話だと反対車線の事故が原因で一時完全にストップしちゃったみたい。
幸いこちらは中央道は使わずに長野方面に向かっていた。
パパはとにかく相模湖周辺の渋滞が嫌い。関越から上信越道を使うルートを選択していた。こちらはがんがん流れている。
yuko_nekoさんからのメールと前後して、上里SAで休憩。
いつもこのSAではベーカリーに寄るんだよね。
けっこう美味しいんだ、ここのパン。カメの形をした可愛いメロンパン、カメロンとかもあってさ。
今回はストロベリーのベーグルにした。
・・・まさか、これだけ今日の夕食になるとは、このときは思っていなかったが(もうちょっといっぱい買っておけば良かった)。
とにかく買い込んだパンを車の中でかじりながら先を急ぐと、ちょうど奇山、妙義山のあたりで夕日が空を染める。
真っ赤に燃える日没を背にぎざぎざのシルエット。
しょっちゅう上信越道を使う我が家だが、この時間帯にここを通過するのは珍しい。
黄昏の夕闇の中、山の緑に交じりところどころ桜のほの白い花。
ETCの千円割引は今日は使えないので通常の割引適用のため佐久平でいったん高速を降りて、30秒もしないうちにまた高速に乗る。
その後も順調に距離を稼ぎ、とっぷりと日の暮れた豊科インターで長野自動車道を降りたのは7時半頃だった。
何故かクリスマスのようにライトアップされた並木を見ながらJR大糸線豊科駅前から国道147号線に入り北上。
今夜泊まる安曇野の山荘旅館せきえいのアクセスマップはパパが印刷して持ってきたが、縮小しすぎたのかもともとの画像が悪いのか要所要所の目印が記された文字がほとんどつぶれていて読めない。
とにかく出発前に彼が適当にナビに入力した地点を目安に車を進めていく。
「柏矢町駅のところで線路を渡って直進、安曇野アートヒルズっていうのを目印にすればいいらしい」
そもそも安曇野アートヒルズってなに?
駅前を過ぎると、とたんに暗い田舎道。
本当にこの道で合っているのか不安に思いながら走り続けると、豊山という交差点についた。
大丈夫。この交差点は地図にあった。
そこを左折、しばらく進むと何やらライトアップされた美術館のようなものが見えてきた。
「これが安曇野アートヒルズかぁ」
安曇野アートヒルズの前を過ぎて、鋭角に曲がる角が見えてきたら右へ。
裏道の、ちょうどアートヒルズの真裏に安曇野山荘旅館せきえいの看板を見つけた。
どうやらここからさらに細い道に入るようだ。
看板が無かったら全然わからないところだ。
灯りもないような林の中の小道沿いにせきえいは建っていた。
到着時間はちょうど8時。
さっき6時頃に電話して伝えた到着予定時間ぴったりだ。
とりあえずチェックインしようと私が先に車を降りて玄関の戸を開けると・・・
いきなりそこは暖かな光に照らされた食堂だった。
ひと組のお客がテーブルを囲んで夕食を食べている。
一瞬入口を間違えたかと思った。
玄関からいきなり食堂に直結しているとは思わなかった。旅館らしくない雰囲気に驚く。
鞄を下げて入ってきた私を見て、食事中だったお客さんの一人が宿の人を呼んでくれた。
急いでやってきたお兄さんは宿帳も出さず、まず部屋に案内してくれた。
忙しい時間帯にまことに恐縮。
部屋は今の玄関に直結した食道から廊下をはさんで向かい。
二重になった襖を開けると、家族四人で泊まるには十分すぎるほどの広さの部屋があった。
真ん中に炬燵。
炬燵の上にはポットと茶器と菓子。
何の変哲もない旅館の部屋のはずだが何だか旅館らしくない。
そのわけは、部屋のあちこちに置かれた調度品によるものだった。
壷や掛け軸は良いとして、テレビの上に置かれた藁細工、花瓶の隣のこけし人形、極めつけは端午の節句用とも見えるきらびやかな人形。
・・・旅館というよりも、親戚の家に泊まりに来たようだ。
部屋の鍵も何しろ入口が襖なのだから非常に心もとない。
もちろん我が家としてはそこが気に入らないというわけではない。
普通の旅館とはちょっと違うなと思うだけで面白がっている。
お風呂に行く前にパパが布団を敷いてくれた。
この宿の特徴として、整体を考える健康敷布団というのがあげられるらしい。
ヘルスロールと呼ばれる変わった布団で、丸めた芯を並べて作られたような形をしている。
この丸めた芯が少々固めで、横になると何だかぼこぼこと妙な感触だ。
さて、安曇野山荘旅館せきえいは温泉旅館だ。
お湯は中房温泉から引いている。
中房温泉は燕岳登山口にある一軒宿の旅館で、30以上も湧出口のある湯量豊富な源泉を持っている。
まだ子供が生まれる前・・・10年以上前になるか、泊まったこともある。
日が暮れてから、月明かりを頼りに混浴露天風呂を回った思い出もある。
このせきえいでは、その中房温泉を掛け流しで使用しているという。
ちなみに実は完全な掛け流しではなく、温度調節のために循環装置も挟んでいる半循環状態のようだが、宿の方の意識としてはできるだけ源泉そのまま使用ということで、掛け流しを行っているという意識のようだった。
浴室に至る廊下には所狭しといろいろな絵画が飾られている。
おそらくは宿に絵心のある人がいらっしゃるか、たいそう絵の好きな宿であると見受けられる。
廊下の正面に金色の仏像を描いた絵が飾られてあるので夜中などに浴室に行く時はちょっとびびりそうだが。
突き当りには「安曇野の味 源泉コーヒー」の可愛らしい看板。
実はこの宿は、洗面所でもお湯のカランをひねると中房温泉の源泉が出る。これは温泉好きにはかなり嬉しいポイントだ。
つまり、部屋でお茶を飲むときも源泉茶にできるわけ。
そして浴室入口の向かいには非常に古びたマッサージベッドがある。もちろん現役。
「ここのお風呂はねぇ、洗い場の床が畳なんだよ」と私が言うと、「うっそー」と子供たち。
本当だよ。見てみる?
がらりと浴室のドアを開けるとカナもレナも目が丸くなる。
「ホントだー。ぬれても大丈夫なの? どうなってるの?」
畳の洗い場は、私は磐梯熱海で使ったことがあるが、子供たちにとっては初めての体験だ。おそるおそる足をのせて、きゃあきゃあ言っている。
浴室は小ぢんまりとして、使い込んで少し黒ずんだ桧の浴槽が二つ並んでいる。
両方ともほぼ同じくらいの大きさの長方形で、ひとつは縦、ひとつは横向きに設置されている。
そして何故か両方に圧注浴の設備がついている。
お湯はすっきりと無色透明。
肌ざわりはきしきしと引っかかる感触が強く、身を沈めていると浴槽の木の臭いが鼻をくすぐる。
表面の澱みのところに薄く油膜のような何かが浮いているのが見える。
源泉の蛇口は白い析出物がこびりついている。
すっきりさっぱりとした良いお湯だ。
カナとレナは持ってきたお菓子のおまけのポケモン人形を木の桶に入れて遊び始め、なんだか知らないけどずいぶんと長湯していた。
温泉好きの私がいいかげん上がっても、まだしばらく入っていた。
そして連休前夜の今日は、いくら待っても他のお客さんは浴室には現れなかった。