それは石から始まった
「庭石は埋めてしまうしかないか・・・」
築60年以上の屋敷を引っ越すことを決めたのち、その古い建物と荒れ果てた庭を全てリセットし、大型ディスカウント電気店かゴルフ練習場にするという案も出た。1980年代のことである。
価値があるともわからない大きな庭石は、もとは庭園の華であったかもしれないが、既にその庭を眺めることのできる縁の雨戸も長いこと閉め切られたままですっかり見る人もいなくなっていた。
屋敷に住んでいたのは特殊金属エクセルという精密金属材料メーカーの創業者一族であった。
昭和22年に建てられたここを取り壊し、更地にしてしまうにしても、ごろごろと転がっている沢山の大きな庭石をどうしたらいいだろう・・・そこから「さやの湯処」の構想は始まったのであった。
さやの湯処の休憩室兼食事処「柿天舎」
建築家 降幡廣信氏との出会い
実際は15年ほどかけて各地の温泉旅館などを見て回ったと特殊金属エクセル会長の谷口能人氏は語る。
この建物と庭石を活かすことはできないか・・・悩んだ末にインターネットで見つけた建築家の降幡廣信氏に連絡を取る。降幡氏は古民家再生のプロフェッショナルであった。
「何とかしないと!」
連絡を受けて現地に赴き、屋敷と庭を目にした降幡氏はぶるぶると手を震わせてそう言った。
板張りのこのスペースは新たに増築された部分
作庭家 小口基實氏の協力
屋敷を再生するには庭もまた生まれ変わらなくてはならない。
降幡氏は知人の作庭家 小口基實氏に協力を求めた。
ただポンと置かれていたある石は、より巨大な姿が隠されているかのように一部分を地面に埋め込まれ、また平たく設置されていたある石は、美しい縦の紋を強調するように衝立のごとく立てられた。
枯山水の白い川が現れ、元は荒川の市電の敷石であったという石橋が架けられた。
新しい景観を作っているこの庭の石は、全て元の屋敷の庭石が使われた。
こうして作られた古くも新しいそこは柿天舎(してんしゃ)と名付けられた。柿天とは創業者の雅号である。
庭の見える個室「桜の間」と、庭の古木と若木
古いものと新しいものの調和が生み出す世界
古家というだけならもっと古い家がいくらでも残されている。降幡氏と小口氏が特に力を入れたのは時間の流れを感じさせる調和だった。
古い屋敷で使われていた調度品や建具もまた、新しい施設のそこここに使われた。
例えば窓ガラス。景色のゆらぐ歪みある昭和のガラスと、機械的にフラットに作られた現代のガラス。柿天舎でその両方が並んでいるのを見つけることができる。
また庭園の木も、年月を重ね枯れかけた幹の隣に寄り添うように若い木が植えられている。
それは昨日何もかも整えて新しく作られたものではなく、また古いまま朽ちていくものでもなく、昔と今とをつなぐ連綿たる時間の流れを感じさせるものだった。
「ほら、ここ、欠けているでしょう」
谷口会長が指差すのは柿天舎の洋間、以前は邸宅の応接間であった部屋の飾り障子の麻の葉組子だ。
よく見ると柿天舎を彩る調度品のあちにこちに小さな傷などを見つけることができる。
長く使われてきたあかしだ。
「柿天舎」の洋間
さやの湯処の温泉の話
温泉の話もしたい。
さやの湯処の源泉はナトリウム-塩化物強塩温泉。東京都内の深いところには古代の海水を煮詰めたような濃い塩泉が溜まっている。
さやの湯処がオープンしたのは2005年の12月だが、その頃は少しずつ都市部の温泉でも源泉掛け流しの施設が増え始めた時期にあたる。
例にもれずさやの湯処でも源泉掛け流し槽を作った。
しかし源泉浴槽は少し小さすぎるのではないか? そう思う方も多いだろう。
これは板橋区の条例で一日50tまでしか汲み上げられないという制限によるものなので致し方ない。区内に荒川の河川敷を持つここでは、最も地盤の緩いエリアに合わせて地盤沈下防止のための制限を設けているためだ。
その代わり、源泉浴槽からあふれたお湯は隣の円形の広い浴槽に注ぎ込まれ、こちらは屋根もついて雨や直射日光も防げるように工夫されている。
さやの湯処のお湯の色は日によっても少し異なるが、うぐいす色と呼ばれる綺麗な緑色だ。
鮮度に気を使い、タンクに溜めたりせず、できるだけ空気に触れないまま源泉浴槽に注いでいると若い支配人に教えてもらった。
さやの湯処の掛け流し源泉浴槽と、寝湯
リニューアルを経て
さやの湯処は2015年にリニューアルオープンした。
さまざまなメンテナンスを行った他、新たに貸切風呂と高濃度人工炭酸泉が作られた。受付の導線も改善された。
特に貸切風呂。東京都の条例で日帰り温泉ではたとえ貸切利用であっても10歳以上の混浴はできないのだが、これまで大浴場の利用が難しかったバリアフリーを希望する人、小さな赤ちゃんを連れた家族、そして海外の方など、さまざまな要望に応えられるようになった。
正直なところ貸切風呂は赤字かもしれないが、今までさやの湯処に来られなかった方々にも足を運んでもらえれば、とのことだ。
さやの湯処にはテレビは無い。
それはやはりここでは日常で無いことを楽しんでもらいたいからだ。
良い湯とどこか懐かしさを覚える空間。
庭石も古木も梁も箪笥も壺も障子のさんや窓ガラスまで・・・人と過ごした時間が長いそれらは、フェイクではない、本物だけが持つ時間の流れを私たちに感じさせてくれる。
さやの湯処の貸切風呂とその天井
2015年12月取材