若旦那はミュージシャン
「御谷湯に自分のバンドのCDを置いたりとか、そういうことは考えていませんね」
にこにこと笑顔で語る御谷湯の若旦那さんは「片想い」ボーカルを務めているミュージシャンだ。銭湯の仕事とは切り分けているので、例えば2015年に御谷湯建て替えてリニューアルオープンした時に「御谷湯祭り」と銘打ってライブ演奏を行ったりはしたが、通常は御谷湯に行っても片想いの曲が流されているとか写真が貼ってあるとかそういったことはないという。
そう、御谷湯は2015年にリニューアルした。それまで東京墨田区の古い銭湯だった建物は、今は最新の効率的な銭湯に生まれ変わっている。ならば使い込まれた庶民的な雰囲気はすべて消えてしまったのかといえば、それは決してそんなことはない。
御谷湯の入口と5階の浴室 温泉は真っ黒な黒湯の掛け流し
目に見える形としてのキーワードは江戸風
東京の下町、住宅や町工場が並ぶ一角に建つ御谷湯は、「江戸」を意識した内装を施してある。ペンキ絵が富士山なのはもちろん、下駄箱や脱衣棚のナンバーは漢数字。押上にゲストハウスができてからは目に見えて海外からのお客さんも増えたという。銭湯で国際交流だ。
しかし御谷湯の見えないキーワードはもっと重要だ。それは福祉であり地域の人たちの交流の場であり続けるということだ。
富士山のペンキ絵のある5階の浴室と、流水と梅の黄金のタイル絵がある4階の浴室
福祉型家族風呂と混浴に関する東京都の条例の溝
御谷湯には通常の男女別の浴室や露天風呂の他に、貸切で利用できる「福祉型家族風呂」というものがある。福祉や雨水を使ったエコロジーな節水に力を入れているのは大旦那さんだ。
実は東京では銭湯・日帰り温泉において貸切風呂というものを設置できない。条例でそのように定められているのだ。介護・福祉の目的であろうとも、混浴は不可。
そこで現在は介助者は(異性ならば)着衣のままであることを義務付けた上での使用と制限を設けて福祉型家族風呂の実施を行っている。
綺麗に清掃された福祉型家族風呂
この御谷湯の福祉型家族風呂は単なる檜の貸切風呂ではない。浴槽の中にはスライド式の板がはめられるようになっていたり、介助者の座る椅子は座る部分が回転するようになっていたりと、介護に使いやすいような工夫がしてある。
福祉型家族風呂の浴室全体と、座るところが回転開店するようになっている介護者の椅子
※ 福祉型家族風呂は要予約制 赤ちゃんと二人で入りたい、手術跡や傷跡を他人に見られたくないなどの理由での利用も可
地域とともに歩む銭湯として
これからの日本はどんどん高齢化社会になっていく。福祉・介護というのは他人事ではない。また一方で地域のコミュニティとして銭湯が生き延びていくに変わっていかなくてはならない部分もあるのだろう。実際、東京の銭湯はこうしている間にも、ひとつまたひとつと惜しまれつつも廃業しているのだ。
地域の人々の生活の中にある、人にやさしい銭湯でありたい。そう願う御谷湯の取組みは、例えば脱衣所にあるトイレ一つ見てもわかる。バリアフリーなのはもちろんびっくりするほど広い。落ち着かなくなるほどだ。
福祉型家族風呂だけでなく、男女別の浴室のお風呂も、足をあまり持ち上げなくても入れるよう、浴槽を低くしている。
さまざまな工夫はより多くの人に使いやすいお風呂であるため。
そして今日もまた、御谷湯には近所の人たちのおしゃべり声が響く。この先もずっと。
江戸風を意識した脱衣所と、東京スカイツリーの見える半露天風呂
2016年3月取材