◆◇桜の古都巡り◇◆
京都観光旅行記
寂光院は三千院と同じ天台宗の寺院だ。
つまり大原という場所において天台宗の力はとても強い。
寺院の創建はとても古く飛鳥時代の594年と伝えられる。
寂光院は元々聖徳太子が父の用明天皇を弔うために建てた寺で、聖徳太子自身が製作したとされる六万体地蔵尊を本尊とする。そして聖徳太子の乳母であった玉照姫が初代住持であったとされる。尼寺なので、代々住持は女性がつとめている。
しかし寂光院を有名にならしめているのは聖徳太子ではなく建礼門院徳子だ。
なぜかと言えば恐らく聖徳太子と寂光院の関係は既に伝説に近く、複数の創建説があるからと思われる。
しかし建礼門院と寂光院の関わりは明らかであり、また平家物語に語られる建礼門院の悲劇とあわせて広く語り継がれていることから、建礼門院を偲ぶこの寺の参拝客は後を絶たない。
建礼門院徳子は平清盛の娘である。
平安時代中期に全盛を誇った藤原氏の如く天皇家の外戚となり実権を握ることを欲した清盛は、娘の徳子を高倉天皇の中宮として嫁がせ、1178年安徳天皇が生まれる。
しかし栄華は長くは続かず、清盛の死後は源平合戦の末、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡、建礼門院徳子も8歳の安徳天皇を抱きかかえた二位尼とともに舟から海中へと身を投じた。
この時三種の神器のひとつ、天叢雲剣が失われたとも言われるが、建礼門院徳子は源氏方の渡辺昵に救い出され、以降この寂光院にて平家一門と安徳天皇の菩提を弔ったとされる。
平家物語のラストは大原寂光院に閑居する建礼門院が語り没す。
まさに平家の栄華は春の夜の夢のごとしかな。
寂光院を見上げる石段の途中で、写真を撮っているグループがいたので終わるまで登るのを待った。
どうやら年配の夫婦と観光タクシーの運転手のようで、夫婦が茅葺の門の前に立ち、運転手がカメラを構えていた。
撮影が終わってから石段を登った。三千院の石段と違い幅が狭く垣根に挟まれているところが奥ゆかしさを感じる。
石段の途中に左右に脇道がある。
右は孤雲という茶室で、門から先は立ち入れないようになっている。入り口で庭を鑑賞することができるだけ。
左は宝物殿と売店。休憩用のベンチなどがあった。